ある日、電話の音がして〜チラシと夜とマンション編〜


(何でこんなことになったのかな……)
 手の中になる4つ折りのチラシの束が雄弁にその理由を物語っているが、思考の外へと追いやりながらため息をつく。
 白いため息が散った先、薄暗い照明に照らされたマンションの廊下を見据えながら、その奥へと足を進める。


 ことの発端は、私の携帯に掛かってきた1本の電話。
「やっほー、久し振り。」
 声の主は、倉沢靖子。小学生時代から続く古い友達で家が近いためか今でも気軽に遊びに誘い合う関係なのだ。
 しかし、今日は平日、その上この女は私と違い立派な社会人。はて?
 怪しむ私の耳に、尚も軽快な声が襲いかかる。
「ねぇ、今暇? 暇ならちょっと付き合って欲しんだけど?」
 ほほう、それは私が年中暇を持て余していることを知っての物言いかね? 私がそのような申し出にほいほいと応じる程安い女だと――
「付き合ってくれたら、ご飯くらいおごるけど?」
「暇、暇、どこ行くの〜どこでも付いて行くよ〜」
 べ、別にご飯に釣られたわけじゃないからね。ちょうどいい暇つぶしになりそうだったから付き合うだけなんだからね。
「それじゃあ、20分後に……」


 ……と、そんな感じでお互いの家を出たのが二時間程前のこと。
 マクド○ルドのクーポン券があるとかで、Lサイズのポテトをつまんでいたのが1時間前。
 パートの方々が折り間違えたとかいうチラシを、逆向きに折り直していたのが30分前。
 そして、そのチラシを配るべく年季の入った市営住宅のマンションへとやってきたのが5分程前。
 ……はて? どうしてこうなった?


 とりあえず分かり易く要約すると、私はマクド○ルドのセット1つ(約700円)で、チラシ配りのバイトとして召集されたらしい。
 この不景気、チラシ配りすら社員自らが出動し投函しないといけないらしい。
 他の人たちもやっているらしく、自分一人が断ることもできず、巻き込む生贄が欲しかったとのことだ。
 気持はわかる。わかるとはいえ……

 時刻は20時、既に日も落ちて辺りは暗闇。
 汚れが染みついた壁や掲示板には、至る所に落書きがあり、中には伏字上等な卑猥な物まで……
 所々錆びつき、赤茶色になっている窓枠や手すり……
 薄暗い照明に照らされた、冷たいコンクリートの床と、各部屋の前に設置された自転車、鉢植え、変な置物等など……
 デリケートな乙女心には、少し刺激が強すぎるのではないだろうか?
 とはいえ、既に代価を得ている以上、ここで引き下がるわけにはいかない。漢女として!


 コツっと、靴の音を止めマンションのとある一室への唯一の出入り口、ドアへと向き直る。
 室内からの明かりはないことを確認し、表札とドアを食い入るように観察する。
(よし、セールスお断りの張り紙はないよね。)
 よりによって私たちが担当するこの棟は、クレームの多い危険地帯らしい。靖子の話によると、前に「セールスお断りと書いているのに何故チラシを入れたの!」かと苦情の電話が来たことがあったとか……
(それじゃあ、後はこのチラシを入れるだ……)
 ドアの郵便受けにチラシを入れようとし、その姿勢のまま固まる。
 別にチラシの入れ方がわからないというわけじゃない。
 1.音がしないように慎重に蓋を開く。
 2.音がしないように祈りながら慎重にチラシを中に差し入れる。
 3.音がしないように慎重に蓋を閉じる。
 このたった3工程の単純作業である。
 であるのだけど……
 
 (なんで……蓋がガムテープで閉じられてるの?)
 全ての異物を阻むべく、蓋は粒々ザラザラのガムテープ(布テープって言うんだっけ?)で開かずの扉へと強化されていた。
(これって……チラシとか入れられたくないからだよね? こ、ここまでする? そんなにチラシとか入れられるのが嫌なの? まぁ、嫌だからしてるんだと思うけど……もし、こんな人にチラシを入れようとしてるのが見つかったら……)


「よう、姉ちゃん……あんた、誰に断ってわしの家にチラシを入れるなんて上等なことしようとしてんだ?」
「あっ、あの……私は別に……」
「覚悟はできてんだろうな……」
「ご、誤解です……えと、ここ12階ですけど……」
「問答無用じゃぁあ!!」
グサッ
グフッ
私は死んだ。


(……で、でも、ほらこの部屋明かり点いてないし大丈夫だよ……)
 コツコツコツ……
(足音!? もしかして帰って来たの!? に、逃げないと……)
 自分が通って来た二重のL字になっている廊下に注意を向けながら、再度周囲の様子を確認する。
 後ろ、ここは廊下の突き当り。手すりの向こう側に隣のマンションが見えるけど、カギ爪付きロープは所持品には含まれてない。
 右、無人? の部屋、多分鍵が掛かってる。
 左、吹き抜けの手すりの向こうには、向かいのマンションの明かりが見える……って、だから私は怪盗的な七つ道具は持ってないって。
(まだよ……まだ前後左右が塞がれただけ! ここは3次元! つまり、上下があるってことじゃない! 吹き抜けになってるってことは手すりに捕まって下の階に逃げられるってことじゃない!!)
 硬い手すりから冷気が、痛みとして手のひらに突き刺さる、暗く遠い地面がやけに大きく見える。
(怖い……でも、こんな所で死ぬわけには!!)
「何やってんのあんた?」
「へっ?」
 聞きなれた声に振り向くと、見慣れた顔が呆れた表情を浮かべていた。
「遊んでないで次行くわよ。」
「……うん。」


 チンと甲高い音を立てて、エレベータが次のステージへと私たちを排出する。
 1階くらいなら階段の方が早いとは思うけど、青白い光で照らされた階段を使うなんて冗談でも許してほしい。
「それじゃあ、さっきと同じ要領でお願いね。」
「あっ、ちょっと……手分けなんてしないで、2人でやらない?」
 右側の廊下に入ろうとする靖子を呼び止める。
 マンションはエレベーターを中心に左右へと廊下が伸びており、一方は吹き抜け、もう一方は部屋という構造になっている。効率良くチラシを配るなら二手に分かれ、それぞれ奥の部屋から開始し合流するというのが、頭の良いやり方なのだと思う。
「……なんで?」
「えと……寂しいから……なんちゃって……」
「それじゃあまた後でね。」
 有無を言わせぬ背中が右の通路に消える。
(うぅ……こうなったら、さっさと終わらせるだけよ。)


 カツっと可愛い音をたて、チラシがポストの中に吸い込まれる。
(ふぅ……これくらい位の音なら大丈夫だよね。うん、楽勝、楽勝。さぁ、次の部屋は……)
 右手のチラシの束の中から、次の分を取り出しながら隣の部屋へと足を進める。
(蓋は閉じられてない……セールス禁止の張り紙もない……念のために表札の方も確認し……)
 郵便受け、ドアノブと視線を移しながら、表札へと視線を移動させ、固まる。
(……く……組長?)
 白い名札に筆記体で刻まれた文字が、ハッキリと瞳に刻まれる。
(く……組長ってアレだよね? 組を仕切ってる一番偉い人で……子分や親分がいっぱいいて……)


「よう、姉ちゃん……ここが組長の部屋だってわかって、チラシを入れてんだよな?」
「あっ、あの……私は別に……」
「ご、誤解です……えと、ここ11階ですけど……」
「問答無用じゃぁあ!!」
パンッ
グフッ
私は死んだ。


(……で、でも、なんで組長がこんなところに? と、とにかくここはパスして、次の部屋……うぅん、見つからない内に次の階に……)
 タンタンっと、靴音を極限にまで抑えながらエレベータに向けて全力歩行。
「あれ? そっちもう終わったの……」
「いいから、こっち……」
「へっ……?」
 途中で見つけた靖子の手をひっぱりエレベーターへと急ぐ。3部屋分の通路を抜け、フロア奥の逆三角マークのボタンを強く押し込んだ。
「どうしたの?」
「落ち着いて聞いてね。ここ、組長がいるみたい。」
 カチカチッと、ボタンを連打したい衝動を抑えながら、事態の深刻さを理解していない靖子に重大な秘密を告げる。
「それがどうかしたの?」
「だから、組長がいたんだってば。」
 ちょっとズレた子だとは思ってたけど……まさか……組長がいる=子分いっぱい=私達蜂の巣というシンプルな明確な図式がすぐに思い浮かばないなんて……
「そりゃあ、いるでしょう? さっきの階にもいたし。」
「上の階にも!?」
 驚愕の事実。
 ていうか何? 上の階にも、その下の階にも組長がいるなんて……世界は狭いなんてレベルじゃないよ、12階と11階で抗争勃発なの?
「少し上の階に住んどるからって、でかいツラしてんじゃねぇぞ!!  誰が下の階で支えてやってると思ってんだ?」
「あぁ、そうだな。てめぇらみてぇなカスは、一生オレらの下で支えてんのがお似合いだな。」
 とか、いつもやってるんだよね? 恐ろしい……恐ろしすぎるよ、市営マンション……
「もしかして、変な勘違いしてない?」
「へっ?」
「組長って、隣組とか、このマンション内の役職の組長のことなんだけど……」
「……任侠とか仁義とかは?」
「何それ?」
 冷たい空気が漂う中、チンッと音がしてようやく得れーベーターの扉が開く。
「……次、行かない?」
「その前に、この階の入れられる部屋全部にチラシ入れてからね。」


「……次は6階ね、余ってる分こっちにも分けて」
「あっ、うん、って、分けたら私3枚になっちゃうんだけど……」
 紆余曲折を重ねること十数分、私達は順調にチラシを消化していた。
「あなたの速度なら十分でしょう?」
「うっ……確かに……」
 靖子が1階辺り、平均7〜8枚配るのに比べ、私の記録が2〜3枚であることを考えると確かに十分だ。
 少し注意しておくけれど、別に靖子に比べて私の要領が悪いとか遅いとかいうわけじゃない。
 靖子が担当する右側の部屋数は3。
 なのに、私が担当する左側は7。
 つまり、それだけ奥に到達するまで距離があるということで、だから、靖子が先に右側を制圧し、左側に攻めてくるのは必然ということなのである。
「大丈夫、残り枚数から考えて、この階で終わりだからがんばろ。」
「うん……っていいのそれ?」
「チラシはちゃんと配ったんだからいいんじゃない? 数が足りないのは私のせいじゃないんだし。」
「まぁ、そっちがいいならそれでいいけど……じゃあ、また後で」
 それならいっそのこと、最初から全部配ったことにしてチラシを捨ててしまえばいいのでは? とか思いつつ、最後の試練の舞台、6階左廊下へと足を進める。


 自転車どころか、スクーターや一輪車が置かれた部屋、明かりの向こうから焼いた魚のような匂いが漂う窓を越え、ドアの前にびっしりと透明な液体が入ったペッドボトルの群れを無視してチラシを……
(って! 何!? このペッドボトル? 魔除け? 魔除けなの? これって猫とかを近寄らせなくするアレだよね? 私たち猫扱い!?)
 ……とにかく順調に足を進め、廊下の奥から3部屋目、残るチラシもあと1枚。長かった恐怖体験もあと少しというわけなのである。


 郵便受け、ドア、表札と視線を動かす。
(異常なし。後はこのチラシをここに入れれば……)

 ガチャ

 不意に、右方向より無機質で硬質な金属音。
(まっ、まさか!?)
 頭を過る不吉な予感を裏切ることなく、『ずっ』というペットボトルを押し出す音を響かせ、扉が開かれる。
(み、見つかった!? どうする? どうしたらいいの!? ていうか見つかった場合の対処方法なんて聞いてないよ!)

 対処方法@:大声で助けを呼ぶ。
 ⇒予想結果:侵入者に気付いた他の部屋の住人が現れ完全に囲まれる。

 対処方法A:手すりを跳び越え下の階へ逃げる。
 ⇒予想結果:当然向こうも手すりを跳び越え追ってくる+長年このマンションに住んでいるため地形補正は◎
  ⇒捕まり火あぶり。

 対処方法B:戦う。
 ⇒予想結果:無理。


(絶対絶命のピンチ!?)
 思考が暴走する中、事態は刻一刻と変化を見せる。完全に解き放たれた闇の向こうからマンションの住人がその姿を現す。
 近眼のせいで顔はよく見えないが、たぶん男。結構ずっしりしているような気がする。近寄るのでもなく、立ち去るのでもなく、何を思ったのか私の方に体を向け、直立不動。
(ふぅ、とりあえず先制攻撃はナシっと……でもどうして何もしてこないんだろう? ……そうか!?)
 瞬間、灰色の脳細胞が自明の理な答えを私に告げる。
(こんな可愛い女が、残虐非道なチラシ配りの訳がないと迷っているのよ! つまり、私が助かる道はたった一つ!)
 パンパンとスカートのポケットや、コートのポケットに手を入れ、ガサゴソと手を動かす。
(さぁ、立ち去りなさい。私は善良なこの部屋の住人。鍵が見つからなくて手間取ってるだけで、決してチラシを入れようといていたわけじゃないんだからね。)
 コツコツコツ……
 無言の死闘を繰り広げる私の耳に、絶望的で決定的な物音、近づいてくる靴音が届く。
(は、謀ったな!? 様子を伺うと見せかけて私を足止めし、その隙に仲間を呼ぶなんて!!)
 不敵な笑みを浮かべているあろう親父を余所に、私は起死回生の策を巡らす。
(こ……こうなったら……え〜と……色仕掛けとか? できるの私に? 違う、できるできないじゃない。やるしかないのよ!!)
 覚悟を決めた私の背後で、靴音が止まる。
(キタ!)
「何やってんのあんた?」
「へっ?」
 聞き慣れた声に振り返ると、見慣れた顔が呆れた表情を作っていた。
(あれ? なんかデジャビュ)
 戸惑う私を余所に、サッと郵便受けにチラシを入れる靖子。
(って、何やってんの!? 今第一種戦闘配備中なのよ!? 終わった……これで完全に敵として認識された……今に、『貴様らが犯人か! 生きてこのマンションを出られると……』ってアレ?)
 廊下の奥には、依然として直立不動の魔物が一体。依然として動く様子はなさそうである。
(そうか!? 靖子が加わったことで2対1になった。つまり、戦況は私たちが有利! やるなら今しかない!!)
「えと……こっち側はもう終わってるから、帰ろう。」
「ん、了解。」


……こうして、私たちの恐怖体験は幕を閉じたのである。しかし、安心してはいけない。いつ第二、第三の市営マンションの魔の手が……
「ねぇ、次も手伝ってくれるわよね?」
「えと……」
「またご飯おごってあげるから。」
「……し、仕方ないわね。べ、別にご飯に釣られたからじゃないんだからね。友達をこんな危険な場所に一人にはできないとう優しさからなんだからね。」


 ……えと……ツンデレって萌えポイントだし、あざといくらいの分かりやすい方がいいよね?

END



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